青山脳病院と斎藤茂吉居住の碑

青山4丁目付近 昭和34年

正面奥にみえる白い建物が青山電話局(現在のNTT青山)。手前左の車は当時あこがれのヒルマン55年型

明治神宮外苑青山口 昭和34年今の銀杏並木入り口あたり

昭和20年 、太平洋戦争終戦。この戦争による被害は全国的であるが、赤坂地区(赤坂・青山)の被害率98.3%が最大だったという。昭和20年5月25日の大空襲で、それまで残っていた建物もほとんど焼かれ、赤坂青山一帯は焼け野原となってしまったと港区資料にも書かれている。復興を目指した青山のターニングポイントとなったのはやはり東京オリンピックの開催であろう。

青山通りを行く皇太子(現平成天皇)の
ご成婚パレード
青山一丁目交差点 昭和36年(みなと写真散歩)


昭和31年、自動車時代への対応策とした高速道路建設も含む「首都圏整備法」という道路計画が実施される。昭和39年のオリンピックに向けて大幅な道路拡張工事のため、鉄板で覆いをされた状態が長く続く。そして青山通りはそれまでの22メートルから現在の40メートル道路へ拡張整備された。

青山六丁目交差点 昭和34年

昭和43年9月29日、長年親しまれてきた路面電車(この頃には都電)、青山1丁目~渋谷区間が姿を消し、以後青山の風景は大きく変わる。この日から青山通りは自動車が独占し、交通量は年を追うごとに激増していったのである。

青山脳病院と斎藤茂吉居住の碑

明治36年、斎藤茂吉、北杜夫兄弟の祖父によって今の南青山4丁目に大規模な精神病院が建てられた。ローマ式建築と称した本館は、全面にずらりと円柱が立ち並び、屋根には数個の尖塔と正面玄関の上には時計台がそびえていたが、当時まわりは野原。一躍東京の名所となったが、大正13年、火事で焼失した。この火事の様子も含め、この時代の青山脳病院を舞台に「楡家の人々」は描かれている。昭和2年に斎藤茂吉が院長としてあとを継ぎ、経営にあたる一方、アララギ派の中心として「赤光」「あらたま」などの歌集や多くの著作随筆を残した。現在は高級マンションが建っており、パーキング脇に歌碑がある。 では、茂吉が病院経営にあたり高利貸しの借金に苦しめられたという歌を。 「茂吉われ院長となりいそしむを世のもろびとよ知りてくだされよ」。