北側の篠山藩(本家)南側の郡上藩(分家)

現在の青山の地一帯はのち忠成から四男・幸成に引き継がれた。補足すると当初は長男の忠俊が継いだのであるが三代将軍徳川家光の怒りを買って取り上げられてしまい、代りに弟の幸成に支給されたのである。その後寛永9年(1632年)になって許され、忠俊の子、宗俊が再び幕府に召し出されることができた。この時邸地の北の部分が宗俊に分与され、以後、青山通りをはさんで北に本家の青山邸、南に分家の青山邸が向き合う形となり、明治維新まで続く。この間何度か幕府に上地(ご用地とし返上すること)したので、一部には他の大名や幕臣の屋敷も建てられたが、大半は両青山邸が占め続けた。 忠俊の子孫は天明5年(1785年)丹波篠山藩主となり、幸成の子孫は宝暦8年(1758年)美濃郡上藩主となり、幕末を迎えた。明治2年、幸成から数えて11代目の幸宣の時、版籍奉還が行なわれた。

明治初期の旧丹波篠山藩青山家(温故写真集)